中坪淳彦氏ロングインタビュー (2011.1) 前編


 今も変わらずエレクトロミュージックシーンで活動する、fish tone こと中坪淳彦氏。
 近年は地元北海道でのライブやプロデュース活動が中心となり、氏の楽曲発表が少なく道外のファンとしては動向が気になるところだ。折しも氏がかつて所属していた I've から、昨年末リリースされたコンピレーションアルバムに氏の楽曲が久しぶりに収録されたタイミングでもあり、近況から楽曲の制作秘話、今の音楽業界、そして今後の活動計画についてお話を伺った。

注:記事中の敬称は省略させて頂く場合があります。


TTB studio

――早いもので、前回のインタビューからもう 3 年が経ちました。本日はよろしくお願い致します。

中坪
 お久しぶりです。お元気でしたか? よろしくお願い致します。

――では、まずは近況からお聞きしたいと思います。昨年はライブ活動が中心で、曲の発表は少なめでしたね。

中坪
 そうですね、昨年は主にプロデュースとレコーディングの仕事が多かったですね。新人グループに楽曲提供をしたり、変わったところではクラッシックのレコーディングなんかもさせて頂いていました。中でも印象的だった仕事は、もう 20 年以上の付き合いがあって、ラジオパーソナリティーとしても活躍されている中嶋シゲキ率いる D.O.G のアルバムプロデュースでした。

――具体的にはどんなお仕事だったのですか?

野外ライブ
ライブ「BIG FUN」(2010.9.5)

中坪
 サウンド面でのトータルプロデュースが主な仕事で、可能な限り録りの段階から参加しました。アルバムにはキーボードでも参加していて、その中に一曲モータウン的なヴィンテージの音が必要な楽曲があったんですよ。そこで、知人のスタジオから古いローズピアノを借りてきたり、我が家の倉庫に眠っていた 1960 年代の YAMAHA YC-10 をレストアしたりして録音したお気に入りの一曲です。

 思い出すと確かにライブが多い一年でしたね。CALM さん、デトロイトテクノの重鎮 Derrick May、THA BLUE HERB の O.N.O さんとか、印象に残る多くの方々のライブを間近で拝見出来たのはとてもエキサイティングな事でした。ただ、野外イベントでアナログシンセサイザーを使うのはとても難しかったですね。ビンテージ・アナログシンセサイザーのワークショップも初めての経験でしたが、楽しい試みでした。

――アナログシンセは温度や湿度で音色が変わったりとデリケートですからね。

野外ライブ
「ビンテージ・アナログシンセサイザー
ワークショップ」にてモモさんと (2010.10.16)

中坪
 そうなんですよね、本当に大変です。演奏中音が変わってきたり、雨が降ってきたり、帰ったらシンセのツマミが無かったりしましたが(笑)。でも、とても貴重な良い経験をさせて頂きました。

 あと自分の事ではないんだけどとても嬉しかったのが、レーベルメイトの木箱がメジャーデビューした事ですね。彼らは音楽に対してはとてもストイックな姿勢で、本当に良いグループに成長してると思います。もうひとつ、高橋幸宏さんの WEB ラジオ番組で一曲目に僕の曲を OP で紹介して頂いた事もちょっと嬉しかったです。YMO 好きでしたので(笑)。

――作曲家というより、プロデューサー的なポジションの仕事が多かったということですね。

中坪
 そうですね、どちらかというとライブ以外は裏方の仕事が多かったです。

――ただ、私も含めファンとしては、やはり中坪さんの曲も待ち望んでいると思います。

中坪
 ありがとうございます。そう言っていただけると本当に励みになります。ただ、昨年は心身ともにあまり良い状態ではなかった事もありまして、十分納得のいく作品が出来なかったんです。音屋としてはとても辛い事でした。人はふとした事から全てのバランスを崩してしまう事があります。

――体調がよくない事が続くと、「早く治って欲しい」と気持ちばかり焦りますよね。

中坪
 理想とする自分と、実際の自分とのギャップに焦るんですよね。出来るはずの事が出来ない、好きだった事も疑わしく感じてしまう。“余計な物”で頭が一杯になってくるんです。ですから長い期間“音楽”する事をすっぱり止めていました。執着する事をやめてみたんですね。

――勇気が要りますが、無理せずに休むことも大切ですからね。

中坪
 きっと“恐れ”のようなネガティブな感情に囚われていたんでしょうね。自分自信が今“やらなければならない事”と“やらなくてよい事”の「覚悟」をするまでが大変でした。
 色々な意味で苦しんだ時期だったけど、心のガラクタを捨てる良い機会でもありました。一度“動物”レベルにまで戻って考えると、「あーご飯って美味しい!」とか「外が暖かくって気持ちい~♪」なんて、普段気にしなかった事にもすんごく恵まれていた事に気づきますよ。
 所詮人ひとりの悩みなんてなものは、100 年後には何の意味も持っていないじゃないですか。どうせそんなのも全部与えられた情報から他者と比較して、自分自身で作ってるもんですしね。だから最近はとてもシンプルに音楽を作っています。自分もお客様も楽に出来る“丁度良い”音楽を提供出来れば良いなと思っています。

I've にいた頃

――昨年末にリリースされた『I've MANIA Tracks Vol.III』に、中坪さんの I've 在籍時の曲が脱退してから初めて収録されました。驚いたファンも多いと思います。

中坪
 そうなんですよね、先日 I've の板垣君が家に遊びに来てくれて、一緒に鍋を囲んだんですけど、その時「冬コミで中坪さんの曲使っていい?」って聞くんで、「いいよ」って答えました(笑)。収録に至ったのはそんな経緯です。

 先月久しぶりに前の職場に遊びに行ったんだけど、一矢(編註:高瀬一矢氏)も中沢君、まみちゃんもみんな元気そうで安心しました。でも、いくら“元”社員とはいえ、ジュースの一杯も出ないのはどうかと思ったけどね(笑)。

――では、そのアルバムに収録された曲について、制作など当時のエピソードをお聞かせ願いたいのですが。

中坪
 懐かしいですねぇ……。よく憶えていない曲もありますが、解説させて頂きます(笑)。

――それではアルバム収録順に、「cross up」からお聞きしたいと思います。

中坪
 この曲は確かなんかの曲のボツになった曲だったはずです。あ、言ってもいいのかなこういうの?(笑)

――……問題ないと思います。あっても時効ということで(笑)。

中坪
 この当時は自分、シカゴ・ハウスをすごく聴いていて、その影響でハウスのトラックをよく制作していたんで、その流れだったと思います。ブラック・ミュージックに近づけるため、黒人のシャウトを映画からサンプリングしてます。リードの音は ARP の AXXE ですね。ちなみに、同時期に制作した「Lupe」とは姉妹曲です。

――では、次は「satirize」についてお願いします。

中坪
 ごめんなさい。この曲はホント覚えてないんです。この当時はどんなゲームに使用されてるかも分からなかったんです……。って言うか教えて貰ってなかったんですよ(笑)。なんか大変なタイトルのゲームなんでしょコレ?

――『螺旋回廊2』です。確かに人を選ぶ内容のゲームですね。私もプレイしましたけど、途中でやめちゃいました(笑)。では、「恋のマグネット」を。

中坪
 この曲はよく覚えています。クライアントからの要望はあまり憶えていませんが、わりと自分の好きに作らせて頂きました。
 中沢君の薦めでヴォーカルにモモさんを起用したと思います。この頃は 1960 年代のフレンチ・ポップを好んで聴いていたので。あと、アナログライクな音になるように、ローファイなドラムス音を自分で録って、MPC60 でフレーズサンプリングした覚えがあります。バックのホーンセクションの音もシンセではなく、古いレコードからのサンプリングですね。オルガンは古い YC-10 で演奏しました。
 実は数箇所ミスタッチしているのですが、ライブの生録りっぽくてそのままで収録しました。でも曲間の台詞はビックリでした(笑)。ヴォーカル録りには立ち会っていなかったんで。

――私は「恋のマグネット」はお気に入りなのですが、この曲に限りませんがこだわって制作されていますね。それでは最後に「loose」のことを。

中坪
 この「loose」って曲は、実は先に僕がオケを制作して、いちばん最後にその上から一矢が歌メロを入れた曲なんです。いつもは音色やエフェクトに時間をかけるんですが、この曲はアンサンブルに凝りました。
 特に間奏部分のシンコペーション部から副旋~解決のところが気に入ってます。曲頭、四分休符の後に入ってくる印象的なリード音は、13 歳の頃からの愛器 Roland SH-09 で演奏しています。
 1978 年製のこの楽器は、モジュレーション(ビブラート)ポルタメントを外部で制御出来ません。なので、ノート情報のみ MIDI で、ベンド、モジュレーション、ポルタメントを聴きながら手動でコントロールしたんです。

 苦労の甲斐あって、とても良い音で収録出来ましたね。ポップスを作る場合、音圧を出す為に無意味にシンセ音を重ねたりするのはあまり好きじゃないので、和音構成で音に深みを出して個々のパートを際立たせる方法を採っています。
 でも、いくら先に時間をかけてバックトラックを作っても、最終的にメロディーを書いた人が作曲者のクレジットになってしまうんですよね。メロディーメーカーって羨ましいと思った曲です(笑)。個人的には大好きな一曲なんですよ。

――貴重なお話しありがとうございます。どういったコンセプトや手法で制作したかなど、なかなか伺える機会はありませんので。今まで全ての曲について聞きたいところですが、終わらなくなってしまうので(笑)、他の曲に関してはまた別の機会にお聞かせ願えればと思います。

中坪
 いずれも過去の作品ですが、自分にとっては思い出深い楽曲群です。機会があれば是非、お買い求めいただけると彼らも喜ぶと思います。

“音楽性の違い”で辞めた訳ではないんです

――I've を離れて 5 年以上経ちますが、参加したエピソードなどはこれまで話されたことがないと思います。色々あったと思いますが、お聞かせ願えますか。

中坪
 ええ。脱退してから一度も語った事はないんです……。先方もいなかった事にしたいようでしたので、迷惑にならない程度に(笑)。……うーん、いい言葉が思いつきませんが“戦友”みたいなもんですかね。

 彼らとの繋がりは元々札幌のライブハウスで古くから知り合っていて、苫小牧で 1993 年に“ファクトリー・スタジオ”ってのを最初自分も含めて立ち上げたんです。そこから枝分かれして“ファクトリー”だけ使って、“ファクトリー・レコーズ”と命名したみたいですけど、あるじゃないですか既に UK で NEW ORDER のが(編註:UK には 1978 年に創立されたインディーズ・レーベルの“Factory Records”が存在していた)。それに後で気付いて“FUCKTORY”と改名したと言っていましたね。

 その数年後に色々と困難な状況になっていたようで、「手伝って」と言われて助っ人として制作のお手伝いをさせて頂く事にしました。それがいつの間にか気が付いたら正式参加になっていました(笑)。
 あの頃はみんな本当に必死で、ゼロどころかマイナスから頑張って道のない所に道を作っていった感じだったんです。自分は既に違うフィールドで音楽活動していましたから、参加依頼があった当初は不安や葛藤も当然ありましたが、そのひたむきさ純粋さに共感しましたね。

――貴重な創立エピソードですね。I've レーベルが出来た頃の苦労は高瀬さんたちも雑誌などのインタビューで語られていました。

中坪
 “良いものを作りたい”という想いや、向かっている目線が同じだったんです。重要な要素ですね。自分から見た当時の I've の魅力は、ヴォーカリスト、クリエイター、経営陣を含め I've 自体が一つの新しい形態の“バンド”のようでしたね。個々が自身に与えられた得意のパートを担当していた感じです。それに少数精鋭だった事で、互いの個性を認め合い成長し合えたんだと思います。
 今でも独自の世界観を持った 3 人のクリエーター、個々の才能豊かなヴォーカリストさん達と活動を共にさせて頂いたのは良い思い出ですし、とても誇りに思っています。

中坪氏近影

――ところで、個人的な中坪さんのイメージではアダルトゲームには抵抗があるような感じがしていたんですが、そんなことはありませんでしたか?

中坪
 ええ、アダルトゲームという事に対してはさほど抵抗は無かったですね。10 代の頃は自分もアニメージュやサンデーグラフィック等をよく読んでいて、表現の延長にあるセクシャルな描写には『くりぃむレモ○』や『うろつき童○』なんかで慣れていましたしね。
 でも最初に高校の友人宅で観せてもらった時はびっくりしましたよ(笑)。あの頃は初期ガイナ作品とか、スタジオぴえろ作品などくらいしか観ていませんでしたからね。あ、タイトルは一応伏せ字で(笑)。

――はい(笑)。編集しておきます(笑)。

中坪
 ただ、在籍時には自分が元々いたフィールドのリスナーや関係者には叩かれましたね(笑)。「なんでエロゲ音楽なんか!」とか「オタク向けはレベル低い」など、心無い言葉にはやはり心が折れそうになりましたが、どんなジャンルだろうと音楽には変わりないし、先入観無しで聞いてもらった時に「イイね♪」って言わせる楽曲を制作しようと、120% くらい頑張って作品創りをしていました。

 例えが変かもしれませんが、円谷の特撮物も当時の映画関係者に“ジャリもの”と嘲笑されていたと何かで読みました。それでも信念をもって創り続けると、それは文化としてちゃんと後に認められるのだと思います。
 ですので、いわゆる“音楽性の違い”で辞めた訳ではないんです。

――そうだったのですか。唯一の脱退した公式説明は“音楽性の違い”のひとことだけなんですよね。

中坪
 どこの世界でもそうだけど、集団が“大きくなる”と目的も多様化してきます。自分の場合は他者と繋がる手段としての音楽でしたが、“商業としての成功を第一に考える”という人も当然出てきます。間違ってはいません。ただ、自分の理念とは違うだけの事です。
 経営のトップの独善や利権、横暴の為に自分達のスタイルを変える事に必要性を感じなかったんでしょうね。もともと自分は立ち位置や力の誇示には全く興味が無いタイプでしたから、自分のような職人気質には一法師もやりづらかったんだと思いますよ(笑)。利益のためどんどん外から人が入ってくるし、自分が魅力を感じていた“ここの良さ”が薄れていくように感じて寂しかったですね。

 スティーブ・ジョブスの言葉に、

あなたの時間は限られている。だから、他人の人生を生きることで時間を無駄にしてはいけない。他の人の思考や常識という雑音に、自分自身の内なる声をかき消されないようにしよう。そして最も重要なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことだ。
(編註:アップル社創設者の一人、スティーブ・ジョブスが 2005 年に行ったスピーチより)

というのがあるんですが、自分も同じように考えています。自分の良識の範疇で“フェアではない”と感じた事にはどうしても従ずる事が出来なかったんですね。
 それと、“人は別れる為に出会う”と言いますし、あのタイミングで丁度良かったんだと思いますよ。

――そういうことだったのですか……。好きな仕事をするだけでは会社の発展も望めませんし、これらを両立するということは本当に難しいですね。

中坪
 ええ。そうしているうちに“自分自身が考える正直な作品を提供したい”という気持ちが強くなって来た事と、そこそこ皆“食べていける”ようになってて安心したので(笑)、ここらで自分が音楽でやり残していた事を思い出しての“退社”でした。

 これからも彼らには築き上げたフィールドで元気にさらに頑張って欲しいと願ってます。なにせ 5 年もいた場所ですからね。

※2011.1 TTB studio にて収録


後編に続く

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